
第一回 作:蝮の平次
年期の入った扉を開けた。
そこに、目当ての彼女の姿はなかった。
「あら、いつかの色男じゃない」
ママの言葉に愛想笑いを浮かべながらかまわずスツールへ腰掛けた。
くたびれたジーンズのポケットからしわくちゃの煙草を取り出し、カウンターに置く。
「あんた、ウチの客と派手にやらかしたんだって?」
灰皿を差し出しながら、
あの客がどんなに金を落としていく客だったかということを語り始めたが、
不思議と愚痴っているという感じでもない。
あれ以来、豚野郎は姿を見せていないようだ。
「その分毎日通って埋め合わせするよ、ママ」
言いぐさが可笑しかったのか、ママは大笑いしている。
「あんたから金は取るなって真紀子から言われてるよ。
その代わり毎日顔見せることって条件付きでね」
「言われなくても毎日顔出すさ。
ただ、金は払う。
乞食じゃあないんでね。」
自分のケツは自分で拭く。
そうして今まで生きてきた。
人任せで生きることほど退屈なことはない。
それは生かされているだけだ。
「人の好意は素直に受けておくものよ」
声の主は店の奥から顔を出した真紀子だった。
「条件付きの好意なんてあるのかよ」
「いいじゃない、通おうと思って来たんでしょ?」
・・・・・お前の本当の姿を知りたい.
喉まで出かかった言葉を飲み込みながら、俺は少し笑って見せた。
「考えてみたらお互いがお互いのこと、よく知らないのよね。」
たまたま通っている店が同じで、いつしか言葉を交わすようになった.
それだけの関係。
「じゃあ、自己紹介しようか」
無邪気に彼女は言った。
「私の名前は、田中真紀子」
第二回 作:蝮の権蔵
そして彼女は自分のことを話し出した。
黙って聞いていた。
アメリカに留学していた事、母が離婚しこの店をやっていること。
俺から見れば裕福なお嬢さんだ。
今はそんな生活では無さそうだが。。。
私が知りたいのはそんな事じゃない。
彼女の瞳の奥に圧倒されるものを感じた。
母親には感じる事の無い別もの。
おそらく父親譲りなんだろう。
それが知りたいのだ。
「じゃぁ、あなたのことも話して。」
彼女は私の顔を覗きこんだ。
私の過去。
母親は国際結婚したが、イタリアで死去し日本で祖母に育てられた事。
2年前に祖母が急死し、身寄りが無く一人で生活している事。
くだらないワイドショーとかが喜びそうな人生だ。
今まで誰にも話した事が無い過去。
何故話す気になったかは分らない。
「ソニー!カッコイイ名前。
やっぱりハーフだったんだ。
もっと詳しい事知りたいなぁ。」
真紀子は楽しげにそう言った。
「やめときな。
過去なんて、捨てられないガラクタのようにどんどん溜まっていっちまう
・・・そんなものさ。
穿り返すもんじゃないよ。」
ママがカウンターの奥で煙草を燻らせながら言った。
突然、湿った空気が入ってきた。
どうやら外は雨のようだ。
男と女、どうやら馴染みの客らしい。
「あんたカウンターにお入り。
毎日顔を出すんだったらバイトでもしていきな。」
ママはグラスを眺めながら言った。
「あんたみたいな色男だったら女の客も増えるだろうさ。
着る物なら2階にあるはずだから真紀子に出してもらいな。」
そう続けて言うとレコードをかけた。
ヘレン・メリルの「Don't Explain」
元々、ビリー・ホリディの自作ナンバーとして有名な曲だ。
「愛している男の口から、いやな噂が真実となって伝わって欲しくない。
だから言い訳しないで・・」と、気だるそうにメリルが歌う。
メリルの声に絡むようにブラウニーのペットが囁く。
カウンターの男と女。
ハマり過ぎだとカウンターの片隅に目を向けると、ママがにやりと笑った。
第三回 作:蝮の平次
相変わらず蒸し暑い日々が続いている。
ジャズ喫茶とママの店。
2つのバイトをこなすようになってから一週間が過ぎようとしている。
考えてみると、一日のほとんどをジャズと真紀子と共に過ごしていることに気づいた。
しかし、私が知りたい彼女の本当の姿というものはいまだに掴めない。
ママの店を出るともう外は明るい。
煙草を吸いながら自分の部屋へ歩いて帰る。
泥のように眠るだけの部屋。
誰も来たことのない部屋。
私だけの殼に閉じこもる空間。
足音の響くアパートの階段を駆け上がろうとした時、
辺りを掃除している大家に呼び止められた。
「これ、アンタ宛に来てるよ」
国際郵便。イタリアからだ。
「なんだって今頃・・・・」
不思議そうな顔で俺を見ている大家に軽く礼を言いながら部屋に入り、
無造作に封筒を開く。
差出人は、イタリアにいる父の弁護士からだった。
それを見て、なんとなく手紙の内容を察した。
予感は的中した。
「父が死んだ」
「縁は切れているとはいえ、血のつながった息子であるあなたに通知する」
そんな感じで、遺産相続のことなど事務的に書き連ねてあった。
ひととおり目を通しながら、過去が蘇ってくる。
母が死んだ原因。私の中ではそれが父のせいだと頑なに信じていたあの頃。
父に反発し、親子ということすら拒絶し、
そして遠い母の祖国、日本の祖母の元に身を寄せた。
それ以来、父とは会っていなかった。会いたいとも思わなかった。
会いに行く時は復讐の時。そこまで思い詰めていた。
そんなにも憎んでいた父が「死んだ」という現実に向き合った瞬間、
私は涙を流していた。
勿論悲しいという感情ではない。
「いつか父に復讐してやる」という人生の拠り所を
失ってしまった感情に近いといえばわかってもらえるだろうか。
「遺産相続を放棄してくれ」
後妻の署名入りでそんな内容も書いてあった。
私にはハナからそんな気はない。
「そのかわり、死ぬ間際に父がソニーに送れと言い残したものを送ります」
そんなことが最後に記してあった。
それから数日後の夕方、ひとつの小包みが届いた。
中身は、父が生前に書いたであろう私宛の手紙と、
一緒に束ねてある数枚の書類。
それと色褪せた家族の記念写真が同封してあった。
父と幼い私がドライブに行った時の写真。
過去の記憶に引き戻されつつ書類に目を通す。
どうやらこの書類を持って横浜港まで荷物を取りに行けということらしい。
受け取りを拒みようのない荷物。
それは唯一の親子だったという証。
「供養がわりに貰っておくか」
ふと、周囲の家から漏れてくる線香の臭いに、
今日がお盆の入りだということに気がつき、そう思った。
第四回 作:蝮の権蔵
男は待っていた。
父の古くからの友人だと言って歩き出した。
男に導かれて向かった先は横浜港の一角にある倉庫。
そいつは静かにうずくまっていた。
MASERATI A6/G 2000 FRUA SPYDER
キーを貰い、エンジンに火を入れる。
数回のクランキングでエンジンが目を覚ました。
滑らかなエンジン音から、この車への父の思い入れが伺える。
何故、この車を・・・。
エンジン音を包まれながら父のことを思い出した。
イタリアンマフィアだった父。
私には優しい父であったが、周りの人間の表情を見れば、どれほどの力を持っている
か子供ながらにも伝わってきた。
そして、抗争に巻き込まれて死んだ母。
真っ白なこのボディを血で赤く染め、ボンネットに頬ずりするように横たわっていた母。
昨日の事のように脳裏に蘇った。
男が言った。
「この車は君の両親が初めて出会った時にドライブし、
最後の別れをしたのもこの車だ。
彼は君の母を忘れられずにずっとこの車をそばに置いていたそうだ。」
あんな男でも、そんなセンチメンタリズムを持ち合わせていたのか。
「彼は自分の死を薄々感じ、この車が人手に渡るのを嫌い私に託した。
君への後悔の念がそうさせたのだろう。」
そう言って手続きを済ませた書類と小切手を私に手渡し去っていった。
そこに挟まっていたメモには、
困った事があったら連絡しろと電話番号が記してあった。
父と母の血と汗が染み込んだマセラティ。
そして私には不釣合いな金額の小切手。
今まで両親との思い出の品は何も無かった。
忘れようとしていた過去。
それが形となって急に目の前に現れた。
「今更、どうしろと言うんだ・・・。」
私は都心へと向かってアクセルを踏んだ。
第五回 作:蝮の平次
磨いたグラスを明かりに翳す。
こうすると、綺麗に磨き上げられているかがよくわかる。
店に似つかわしくない行為かもしれない。
ここの客に、グラスの輝きを気にしている客などいないからだ。
磨き残し。その部分を丁寧に拭う。
「あんた、ジャズ喫茶の方やめたんだって?」
そんな私の行為を見つめながら、苦笑混じりでママが言う。
「ジャズならここで聴けますから」
時間が欲しかった。
マセラティを飼い慣らす為の時間。
ジャズ喫茶のバイトの為に費やしていた時間が、
それに変わったというだけのことだ。
おかげであの頃の父の様に、
私にもマセラティを自分の手足のように操れるようになっていた。
「あの白いクルマ、きれいね」
店の奥から真紀子の声。
どうやら店の裏に停めるところを目撃されていたらしい。
「ソニーはあのクルマ買うためにバイトしてたの?」
「まあ、そんなところだ」
「ねえ、今度乗せてよ」
「心中する覚悟があるんならな」
扉が開き、生温い湿った空気とともにいつかの小太りの男が現れた。
どうやら今日は一人らしい。
ママも真紀子も、反射的に私の方を見る。
男は無言で歩をすすめ、そして私の目の前のスツールに腰掛けた。
上目遣いで私の様子を伺いながらも、目に怯えた光はない。
むしろ、どこか人を見下しているようにも思える光。
それが気になったが、表情には出さずに声をかけた。
「いらっしゃいませ。いつかは失礼しました」
「ふ〜ん、この前とは態度が違うねえ」
「仕事中ですから」
「ま、いいや。ちょっとあんたに用があるんだが」
「私の方にはありませんが」
「殴った方には用はないだろうが、殴られた方は用があるんだよ!」
カウンターを叩き、怒鳴る男。
「ここは物騒な話するとこじゃないよ」
ママの言葉を無視して小太り男は話を続けた。
「あの白いの、あんたのだろう」
「ああ」
「俺もクルマの腕なら自信があってね」
「今度はクルマで勝負、ってことですか」
「もしあんたが勝てば、知りたがっていること教えてやるよ」
「まだ受けるとは言ってないぜ」
「いや、あんたは受けざるをえないだろう」
小太り男がそう言い放つと同時に、
扉の外から以前のヤツらとは違う、
危険な臭いを発散させた屈強な男達が店内に雪崩れ込んでくると、
カウンターの中にいた真紀子を引き擦り出した。
「どうやら断れないみたいだな」
「やられっぱなしってのは切なくてね」
殻が破けた。
遠い昔に閉じこめようとしていたもの。
私の中の獣。
どうやらそれが目を醒ましたようだ。
「ママ、心配しなくても大丈夫だから」
磨いていたグラスをママに手渡しながら声を掛け、少し頭を下げると、
男達に囲まれた真紀子と私は、
扉の外の蒸し暑い夜へと出ていった。
第六回 蝮の権蔵
表に出ると奴が車の横に佇んでいた。
真っ赤なメルセデス・ベンツ300SL ロードスター
ボンボンの豚が好みそうな車。
普通の生活じゃ一生手が出ない車だ。
どうせ親父に買ってもらったのだろう。
「車が可哀相だな。。。」
思わずつぶやいた。
良く見ると・・・。
「に・・・西陣織!?」
車のシートが西陣織だ。
豚の美的感覚を思わず疑った。
「どうだ俺の愛車、イカすだろう!」
・・・イカれているの間違いだ・・・。
呆れていると、悔しがっていると勘違いして喜んでいやがる。
どうやらこの男、甘やかすと図に乗るタイプらしい。
この際だから、徹底的に潰したほうがよさそうだ。
「で、ルールはどうするんだ。」
豚はニヤニヤしながら言った。
「ここから横浜のホテルニューグランドまで。どんな走り方をしてもOKだ。」
豚はそう言うと車に乗りこんだ。
が・・・乗り込んだと言うより詰めこんだと言った方が正解だろう。
ステアリングが腹に食い込みそうな感じだ。
美しい車を台無しにしている。
マセラティに乗りこんだ、エンジンに火を入れる。
相変わらず調子はいい。
先日、父の古い友人だと言うあの男の所へ連絡をして一通り見てもらった。
「なかなか扱いが上手ぇじゃねえか。やっぱり血は争そえんな。」
笑いながらそう言った。
笑うと顔の皺がいっそう深くなった。
顔に刻まれた年輪。
俺はこれからどんな経験を顔に刻んでいくのだろう。
男は黙って各部の調整をしてくれた。
私はじっとその光景を見ていた。
男は親父とどんな関係だったんだろう。
「真紀子は俺の助手席に乗せるぜ。お前に逃げられたら困るからな。」
豚はそう言って、自分の車の助手席に真紀子を座らせた。
「ぐへへへ・・・やっとドライブできるな。」
脂ぎったその顔を真紀子に近づけてニヤついた。
相変わらず不快な笑い顔だ。
車を並べた。
さっきの男達の一人が2台の車の間に立ち、両手を上げた
同時に2台の車がホイルスピンをさせながら飛び出した。
第七回 蝮の平次
夜の国道は空いていた。
所々で行われているオリンピックの為の道路工事は、
まるでシケインのようだ。
絡み合うように走る2台のクルマ。
先行している豚のメルセデス。
暫く後ろに貼り付き、奴の走りを観察した。
まず豚がどんな走りをするか知っておかなければ、
自分に火の粉が降りかかってくるだろうことも想像できたからだ。
メルセデスの後ろにぴったり貼り付き、あおってみる。
奴のルームミラーにお守りが揺れている。
「西陣織にお守りか、メルセデスが泣いてるぜ」
夜の街に響き渡るキャブレターの吸気音。獣の咆哮。
思った通り、豚はプライドが傷ついたのか頭に血が上ったか、
さらにスピードを上げて私を引き離しにかかる。
それに遅れることなくピッタリついていくマセラティ。
人車一体。私の意志がダイレクトに伝わるクルマ。
品川、御殿山脇のゆるい登りを過ぎ、下ったところで交差点が見えてきた。
信号は赤に変わろうとしている。
国道を横切る通りから、走ってくる一台のクルマ。
躊躇せず、すばやいシフトワークとペダルワークで減速。
しかし、メルセデスのブレーキランプは点灯しない。
・・・・・「あの豚野郎、無茶しやがって」
豚のメルセデスは強引に交差点に進入し、
横から出てきたクルマと接触しそうになりながらも、
クラクションを鳴らして通り過ぎていった。
人間も傲慢なら走りも傲慢だ。
速く走るということがどういうことなのか判っていないようだ。
速く走るためにはただアクセルを踏み込めばいいというわけではない。
ブレーキング、シフトワーク、ペダルワーク、全てのバランスが大切だ。
そして何よりもまず自分の車を知る事。それには走り込むことだ。
それが速く走るための第一歩だと、父の古い友人が語っていたことを思い出した。
公道ならではの様々な状況下での的確な判断力。
そして読みと直感がものをいう舞台、
あの豚が、それを持ち合わせているとは到底思えなかった。
急停車したクルマをすり抜け、無謀な走りのメルセデスを追う。
どうやらゴール直前まで着いていき、最後に仕掛けた方が良さそうだ。
下手に仕掛けると間違いなく奴は事故るだろう。真紀子もろとも。
大森辺り。静寂を破るけたたましいサイレンの音。
後方から迫ってくる一台のパトカーを難なく振り切る。
後方に飛んでいくように流れる闇。
真紀子の瞳に潜む闇は、もっと深い。
殺人的スピードで走る2台のクルマは多摩川を渡り、神奈川へと入った。
第八回 蝮の権蔵
「そろそろ仕掛けないとまずいな。」
圧倒的パワーの差はあるが、奴の運転技術の未熟さのおかげで離されることはない。
しかし、思いのほか車が増えてきたのだ。
どんな抜き方ならば奴が馬鹿なまねをせず、真紀子に怪我をさせないで済むかが問題だ。
当然、周りの車を巻き込むようなことはしたくない。
あの馬鹿じゃあ、そんなことを理解しているとは思えない。
じわりと焦りが詰め寄ってきた。
真紀子が乗っている以上、下手な仕掛けはできない。
俺が負けたら真紀子はどうなるのだろう。
あの豚に弄ばれるのか。
緩いカーブ。
少し距離をおいていた奴のテールランプが生き物のように暴れた。
「馬鹿が!」
コーナーリング中にブレーキを踏みやがった。
奴のヘッドライトがこちらを照らした。
対向車線にはみ出しテールスライドさせながら横をすり抜ける。
奴が何か叫んでいるようだ。
車を止めて駆け寄った。
幸い、車が突っ込んだ場所は生垣だった。
「真紀子大丈夫か!」
近寄ると豚が低いうめき声をあげていた。
「こいつ、運転しながらナニを出してニヤニヤするもんだから、トップギアにブチ込んでやったわ!」
・・・何て女だ・・・。
一瞬、男として奴に同情してしまった。
「真紀子にこれ以上痛い思いをさせられると勝負にならないだろうから、俺の車に乗せるぞ。」
潤んだ目で豚が俺を見た。
き・・・気持ち悪い・・・また薄ら笑いを浮かべてやがる。
この勝負が終わったら二度と関わりたくない男だ。
「そのまま逃げるんじゃねえだろな。」
うわずった声で男は言った。
勘違いもはなはだしい男だ。
自分がそんなに強い男だと思っているのか。
「俺はお前なんか相手にけつをまくるような男じゃないぜ。
早くその汚いものをしまいやがれ。家畜が!」
そう吐き捨てて真紀子を自分の車に連れて行った。
「真紀子、ちょっと荒っぽい運転をするから掴まっていてくれ。俺のじゃない所へな。」
あれは勘弁だ・・・考えただけでゾッとする。
「あいつのは掴まるどころか摘む程度だったわよ。」
笑いながら真紀子は言った。
・・・だから笑えないって・・・。
ミラーにヘッドライトが迫ってきた。
奴の車だ。
直線でのパワーの差はどうにもならない。
抜かれないようにブロックする。
コーナーでは奴の未熟さがあらわになり、ミラーの中で奴の車が小さくなる。
ナニを掴まれ下半身に力が入らなければなおさらだ。
「ソニー、巧いわね。安心して乗ってられる。あいつの運転は最悪だったもん。」
ゴールが近づいてきた。
ミラーの中で必死にあがいているのが手にとるようにわかる。
しかし奴はどうにもならずにいた。
その程度の運転技術だ。
ホテル直前で猛追してきた。
軽くブレーキを踏んでやる。
慌てた奴はフルブレーキングで横を向いた。
そのまま俺はホテルのエントランスへと車を入れた。
あっけない・・・豚相手にまじめに競おうと思った私が馬鹿だった。
街灯にぶつかりハンドルにしがみついて動かない奴に詰め寄った。
奴は泣いている。。。
「パパの・・・パパのクルマが・・・。」
何だ、オヤジのを乗ってきたのか。
こんな息子を持った親父も可哀相だな。
しかしこの車を見た限りじゃあ親父も同じようなもんだろう。
「俺は勝ったぜ。これ以上俺達の周りをウロウロするなよ。」
喉が乾いた。。。
横浜で一杯やるのもたまにはいいだろう。
「行きましょう。飲むならこっちよ。」
真紀子が言った。
第二章 第九回 蝮の平次
ホテルニューグランド。
横浜の格調高いホテルといえばここしかない。
戦災にもあわず歴史を刻んできた建築物である。
戦前から、いわば外国人専用といった趣のホテル。
大リーグのホームラン王ベーブルースや喜劇王チャップリンはもとより、
あのマッカーサー元帥がコーンパイプをくわえながら厚木飛行場に降り立つと
真っ先に向かったホテルとして有名である。
当然、日本人で利用できるのはごく限られた階層の人間だけだったようだ。
自分には全く相応しくないそのホテルに、
真紀子はなんのてらいもなく、毅然とした態度で入っていく。
「新宿のバーの娘風情が来れるところじゃないはずだ」
真紀子の闇の部分に対する疑念がまた、脳裏に浮かんできた。
真紀子の歩調にあわせて歩を進める。
目の前にそびえる石造りの大階段。
創業当時にイタリアから取り寄せたタイルが敷き詰められているらしい。
階段を登ると、豪華なロビーが現れた。
マホガニーの太い柱。化粧を施された重厚な木製の扉。
あの古い木製の椅子は、何人の人間が腰を降ろしてきたのだろうか。
受付に真っ直ぐ向かう真紀子。
「飲むならこっちって、お前、どういうつもりだ?」
と思っていたのもつかの間、
「お部屋ご用意してもらえるかしら?」
ボーイは訝しげな表情をするまでもなく、
重要な客を扱うような丁重さで私たちを3階の部屋に案内した。
重厚な扉が背後で閉まる。
特別な部屋。
踏み込んですぐ感じた。流れている空気が違う。
しばし無言の2人。私の様子を窺う真紀子の気配。
扉の前で立ちつくす私を後目に、真紀子はベッドに身体を投げ出し笑い出す。
「何が可笑しいんだ?」
「だって、ソニーったらホテルに入ってから何かいつもと違うんだもん」
「普通、泊まれるようなホテルじゃないだろ、ここ。しかもこの部屋って・・・」
言葉を遮るように真紀子が言った。
「そう、マッカーサーがいつも泊まってた部屋」
「だから何でそんな部屋に、お前が泊まれるんだ?」
「そういう話は飲みながらするもんじゃない?」
真紀子が言い終わるか終わらないかのタイミングでドアがノックされ、
ボーイがワゴンを押して入ってきた。
純銀製のワインクーラーに入った真紅のワイン。
水の入ったグラスに刺さっているスティックサラダ。
イタリアで過ごした子供時代によく食べたチーズ。
眩い輝きを放つ2つのワイングラス。
そのグラスにボーイの手からワインが注がれた途端、
妖しい真紅の液体の中に揺れる真紀子の姿が映し出された。
つづく